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細声峠にある案内板。
細声峠は船山と天神山(郡山の尾根)の間にある。
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案内板にある船山権現社に行ってみた。
天神山に3分程登る。
天神山城跡(陶軍陣地)はこのすぐ上。
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A郭東端から、B郭を舐め、奥がC郭。
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A郭。
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D郭(帯郭)。
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堀切からF郭の土塁を見上げる。
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逆にF郭の土塁から堀切を見下ろす。
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F郭の土塁。
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G郭からF郭の段差を見る。
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G郭。
奥はH郭。
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G郭からH郭の土塁を別角度から。
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H郭。
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I郭。
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E郭。
分かり難いが手前に井戸跡の窪み。
奥はD郭下の壁。ここは少し標高差がある。
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細声峠から東郭群の東端を見上げる。
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細声峠。
左が船山で、右が天神山(郡山の尾根)。
元綱襲撃の際、声を細めて忍び寄った事から
付いた名だとか...
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船山城全景。(北東側より)
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相生四郎元綱の墓。
四男就勝の墓との説もある。
歴市民俗資料館で場所を聞き、
行って見たが見つけられず、
近くの明善寺で訪ねたら、
大変親切に教えてくれました。
意外に小さくて、見逃していました。
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(おまけ)
郡山合戦で見事な討死をした尼子久幸の墓。
吉田町西浦の道路沿いにある看板。
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ここから山の中へ、3分程登る。
そこにある案内板。
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尼子久幸の墓。
久幸は経久(出雲統一等で知られる尼子当主)の弟で、
慎重派(安芸遠征に反対等)の久幸は、
詮久(後晴久、久幸の孫、次当主)に
「臆病野州」と罵られていた。
郡山合戦での撤退の際、毛利軍に討って出、
見事な最期を遂げ、「臆病野州」の汚名を晴らした。
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(まとめ・総評)
毛利元就(二男)の腹違いの弟(三男)元綱の城。
当主兄興元が病死し、継いだ幸松丸も9才で病死し、一旦分家に身を置いた元就が本家を継いだ。
当主の座を狙った元綱が元就暗殺を企てるが、逆に先手を取られ元就に謀殺される。
(一味(首謀?)の渡辺氏、坂氏も誅される。坂氏一族桂広澄の自刃の逸話も有名である。)
天神山(郡山)の尾根先だが、天神山とは細声峠で分断(絶壁)されている。
(現在は道路で完全に分断されているが、当時は堀切程度の道だったのでは?...)
南は多冶比川、北と西は山部川、東は天神山(天神山城)に囲まれた切り立った丘陵地。
※天神山城とは吉田町竹原の井上氏の天神山城とは別もの。
この天神山城は、郡山合戦で陶軍(大内方)が陣を敷いたとの事だが、
その為だけの城(陣所)だったのでしょうか?...
吉田歴史民俗資料館の西側出入り口を出て右へ、そのまま道なりに行けば、右にカーブして細声峠です。
道路右側に写真1枚目の案内板があります。(船山城跡は左側です。)
路肩に車を停めて登ります。
相合四郎の墓は、同資料館から県道6号線を西へ約800m、運動公園目指して左折します。
運動公園を左に見ながら明善寺に向けて右折、数十mで右に墓があります。
(見落とし易いので注意。明善寺まで行ったら行き過ぎ。)
道幅が狭く、路肩に車を停める事も出来ません。
ゆっくり見たいなら、運動公園辺りの路肩に停める。(運動公園の駐車場があるかも...)
尼子久幸の墓は、同資料館から県道6号線を西へ約1.2km、左折します。
更に1.7~1.8km先の右に、写真の案内板があります。(黒っぽい木の案内表示もある。)
車は、車道にはみ出して路肩に停めるか、歩道に停めさせてもらうしかありません。(多分)
城跡は、西郭群と東郭群に分かれ、間を堀切で分断している。
本丸は位置的にH郭かG郭だと思いますが、A郭の広さは館跡の可能性もあります。
東郭群の南側の入り組んだ郭はもしかしたら後世のものかも知れません。
全般的に整備はされておらず、藪が多いです。
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