siro  宮尾城跡、博奕尾(みやおじょう、ばくちお)、比高27m
場所広島県廿日市市宮島町長浜
訪問日2006年9月19日(火)
備考 厳島合戦で囮となり、陶軍2万の攻撃に耐えた城
ルート図の表示  案内図の表示


(厳島合戦)
毛利討伐に起った陶晴賢軍(2万人)を、元就の策略により厳島を責めさせる。
宮尾城を囮として、その間元就は包ヶ浦から上陸、突然現れた鹿に先導され博奕尾に至り、
博奕尾から塔の岡目掛け陶軍本陣を急襲し、大江浦まで逃れた晴賢は切腹して果てた。
(余談)
陶軍の圧倒的数は誇張だとか、鹿の話は作り話しだとか、陶晴賢が厳島に寄ったのは必然で、
元就の策略によるものではなかったとかの説が出ています。
※)2006.11.29中国新聞より...
元就が厳島渡航前に集結した「火立岩」跡。
厳島の陶軍に気付かれない様に岩陰に集結した様です。
3000人とも4000人とも言われているので、
かなり大きな岩だったのではないでしょうか。
(廿日市市阿品、広電阿品駅付近)
火立岩跡から厳島を望む。
左の聖崎の向こう側が包ヶ浦、
右端の方が塔の岡、宮尾城です。
包ヶ浦
右端の方で牡蠣筏を作ってました。
包ヶ浦にある「毛利元就上陸之碑」
その横、
火立岩を発した元就上陸の旨と、
厳島合戦の概要図が書いてあります。
更に横、
厳島合戦の概要が書いてあります。

ここから5分、
登山口から沢沿いの道を登って行きます。
途中、毛利軍が手ぬぐいに水を含ませたと言う湧き水。

シダに隠れて気付きにくいです。
道に水が染み出していなかったら見落としていました。

道の反対側(左側)には小さな沢が流れていますが、
当時は無かったのでしょうか。
神鹿の地近くで鹿が現れました。
道に迷いかけた毛利軍は突然現れた鹿に先導されて
博奕尾に至ったと言われますが、
この鹿は右の斜面を下っていきました。
途中、包ヶ浦を見下ろす。
「博奕尾」到着。
廿日市市阿品方面。
中央ちょっと右寄りの方が火立岩です。
その少し右方面。
ここを右に行った方が包ヶ浦です。

元就の船団はここを通ったのでしょうが、
博奕尾には陶方の弘中軍が陣取っていたので、
暴風雨の夜でなければ、気付かれていた事でしょう。
中央手前少し右の方に宮尾城跡が見えます。
鳥居の右側が塔の岡です。
紅葉谷へ向けて下山開始直後にある案内板。
下山後、
塔の岡に向けて登る階段。
塔の岡にある五重塔と千畳閣です。
五重塔は厳島合戦より150年も前の建立で、
千畳閣は豊臣時代、秀吉が安国寺恵瓊に建てさせた
ものです。
中央の緑が宮尾城跡です。
桟橋の目の前(少し右)にあります。

高松城主熊谷信直や、己斐城主己斐豊後守など、
僅か300の兵で陶軍2万の攻撃に10日間耐えた。
宮尾城、本丸跡。
今伊勢神社が建っています。
本丸の一段高い段です。
櫓台でしょうか。
そこにある案内板。
東屋から南西の郭。
本当に郭跡でしょうか?
整備されているので怪しいです。
塔の岡が目の前に見えます。
本丸の北東に箱薬研があるとの事ですが、
これでしょうか?
箱薬研のさらに北東に削平地があります。
これも郭跡でしょうか?
(以下おまけ、別日撮影)
敗走する陶晴賢が陣を立て直した現大元公園
にある供養塔(血佛)。
その説明板。
結局晴賢は、小早川隆景、吉川元春軍に敗れ、
大江浦まで逃れたが、逃走する船も無く、
自害して果てた。
その後、弘中隆兼親子が2~300人の兵と伴に
立て篭もった駒ヶ林。
「龍の岩」と呼ばれる断崖絶壁だが、
結局3日間抵抗した後、自害して果てた。
(弥山山頂より望む)
(まとめ・総評)
桟橋から包ヶ浦(元就上陸碑)まで歩いて35分、そこから登山口まで5分、
登山口から博奕尾まで55分、きつい道はありません。
尾根の最高所は標高約200m、博奕尾は約165mです。
そこから紅葉谷まで10分、塔の岡まで更に10分、宮尾城までまた10分です。

back  comment


 
 参考資料:H・L・C「広島近郊の山城と史跡」