(厳島合戦)
毛利討伐に起った陶晴賢軍(2万人)を、元就の策略により厳島を責めさせる。
宮尾城を囮として、その間元就は包ヶ浦から上陸、突然現れた鹿に先導され博奕尾に至り、
博奕尾から塔の岡目掛け陶軍本陣を急襲し、大江浦まで逃れた晴賢は切腹して果てた。
(余談)
陶軍の圧倒的数は誇張だとか、鹿の話は作り話しだとか、陶晴賢が厳島に寄ったのは必然で、
元就の策略によるものではなかったとかの説が出ています。
※)2006.11.29中国新聞より...
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元就が厳島渡航前に集結した「火立岩」跡。
厳島の陶軍に気付かれない様に岩陰に集結した様です。
3000人とも4000人とも言われているので、
かなり大きな岩だったのではないでしょうか。
(廿日市市阿品、広電阿品駅付近)
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火立岩跡から厳島を望む。
左の聖崎の向こう側が包ヶ浦、
右端の方が塔の岡、宮尾城です。
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包ヶ浦
右端の方で牡蠣筏を作ってました。
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包ヶ浦にある「毛利元就上陸之碑」
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その横、
火立岩を発した元就上陸の旨と、
厳島合戦の概要図が書いてあります。
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更に横、
厳島合戦の概要が書いてあります。
ここから5分、
登山口から沢沿いの道を登って行きます。
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途中、毛利軍が手ぬぐいに水を含ませたと言う湧き水。
シダに隠れて気付きにくいです。
道に水が染み出していなかったら見落としていました。
道の反対側(左側)には小さな沢が流れていますが、
当時は無かったのでしょうか。
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神鹿の地近くで鹿が現れました。
道に迷いかけた毛利軍は突然現れた鹿に先導されて
博奕尾に至ったと言われますが、
この鹿は右の斜面を下っていきました。
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途中、包ヶ浦を見下ろす。
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「博奕尾」到着。
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廿日市市阿品方面。
中央ちょっと右寄りの方が火立岩です。
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その少し右方面。
ここを右に行った方が包ヶ浦です。
元就の船団はここを通ったのでしょうが、
博奕尾には陶方の弘中軍が陣取っていたので、
暴風雨の夜でなければ、気付かれていた事でしょう。
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中央手前少し右の方に宮尾城跡が見えます。
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鳥居の右側が塔の岡です。
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紅葉谷へ向けて下山開始直後にある案内板。
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下山後、
塔の岡に向けて登る階段。
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塔の岡にある五重塔と千畳閣です。
五重塔は厳島合戦より150年も前の建立で、
千畳閣は豊臣時代、秀吉が安国寺恵瓊に建てさせた
ものです。
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中央の緑が宮尾城跡です。
桟橋の目の前(少し右)にあります。
高松城主熊谷信直や、己斐城主己斐豊後守など、
僅か300の兵で陶軍2万の攻撃に10日間耐えた。
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宮尾城、本丸跡。
今伊勢神社が建っています。
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本丸の一段高い段です。
櫓台でしょうか。
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そこにある案内板。
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東屋から南西の郭。
本当に郭跡でしょうか?
整備されているので怪しいです。
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塔の岡が目の前に見えます。
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本丸の北東に箱薬研があるとの事ですが、
これでしょうか?
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箱薬研のさらに北東に削平地があります。
これも郭跡でしょうか?
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(以下おまけ、別日撮影)
敗走する陶晴賢が陣を立て直した現大元公園
にある供養塔(血佛)。
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その説明板。
結局晴賢は、小早川隆景、吉川元春軍に敗れ、
大江浦まで逃れたが、逃走する船も無く、
自害して果てた。
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その後、弘中隆兼親子が2~300人の兵と伴に
立て篭もった駒ヶ林。
「龍の岩」と呼ばれる断崖絶壁だが、
結局3日間抵抗した後、自害して果てた。
(弥山山頂より望む)
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(まとめ・総評)
桟橋から包ヶ浦(元就上陸碑)まで歩いて35分、そこから登山口まで5分、
登山口から博奕尾まで55分、きつい道はありません。
尾根の最高所は標高約200m、博奕尾は約165mです。
そこから紅葉谷まで10分、塔の岡まで更に10分、宮尾城までまた10分です。
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