本日は家族旅行の一工程で姫路城を訪れた。
朝9時着の予定で来たら、予定外に早く、駐車場に8時半に到着!
9時からの開場(三の丸先の入城口)なので、ちょうどよかったかな...
昨年3月、平成の大改修を終えたせいか、人・人・人の上、ロープ等で通路が作られ、それに沿って歩かされる。
通路から外れると立入禁止が多く、城跡マニアにはちょっとどうかなって感じです。
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大手前駐車場に停め、大手門に向かう途中...
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大手門が見えて来た。
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大手門に向かう橋の上から天守が見える。
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大手門横の水路。
何の用途かな?
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大手門を潜ると、
広大な三の丸を挟んで天守がそびえる。
(ちょっとズーム!)
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三の丸の西側は、1段高くなってこんな感じ。
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そこから西の丸に建つワの櫓(奥)とカの櫓を仰ぐ。
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この後、入城口があり、入城料を支払って入る。
そこで天守入城の整理券を渡されるが、混雑する為か天守には1度しか入れない様だ。
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ここを曲がって...
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更にその先を曲がると...
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菱の門。
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菱の門を潜った所にある鳥瞰図。
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菱の門を潜って直進すると、天守方面ですが、
まずは左手(西側)の西の丸に寄ります。
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そこにある南門跡の礎石。
左上は武者溜りです。
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西の丸。の南端。
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西の丸から見た天守。
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西の丸の堀沿いの外周には、
西の丸長局(百間廊下)が伸びている。
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南門跡から西の丸に上がると、ロープが張ってあり一旦北上、
折り返すように百間廊下沿いに南下、西の丸南西隅のワの櫓から百間廊下に入ります。
百間廊下と天守は土足禁止です。靴をビニール袋に入れて持ち歩くので、そのつもりで...
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百間廊下の途中の窓から堀を見下ろす。
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石落とし。
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百間廊下の中はこんな感じ...
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百間廊下から見た天守。
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ズーム!
このアングルが一番いい感じかな?
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なんの模型だったかな...
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百間廊下(北側)から西の丸を見渡す。
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化粧櫓(百間廊下の北東端)には
百人一首?をしている人形が...
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化粧櫓から見た天守。
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西の丸東面の鉄砲狭間。
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西の丸からは北東側に下りる道がありますが、ロープが張ってあり通行止め。
先ほど上がって来た南門跡まで戻されます。
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そして、いの門を潜る。
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次は、ろの門。
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はの門。
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にの門。
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にの門は潜りながら曲がる。
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ほの門を潜って、
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乾小天守を見上げる。
ここで180度ターンして、
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水一門を潜る。
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水二門。
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この後、水三門、水四門、水五門と折れ曲がりながら潜って、天守群に突入する!
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城下町のジオラマ。
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城郭周辺をズーム!
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人の流れに身を任せて進んでいるので、
どこをどう通ったか分からないが、
ここが ロの渡り櫓 かな?
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そうすると、ここが東小天守で、
これがその骨組みの模型かな?
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で、これが
イの渡り櫓 から大天守に繋がる二重扉かな?
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東側の展望。
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武具掛け。
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ニの渡り櫓 への二重扉。
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大天守3階、東大柱。
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大天守4階。
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この後、5階を経て最上階へ...
最上階は大混雑、窓側は人・人・人で、流れてはいるがなかなか進まず。
なので、人の隙間から写真だけ撮って、早々に下りに入る。
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西の丸方面。
百間廊下が見えます。
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三の丸方面。
お花見の季節です。ブルーシートが目立つ!
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シャチホコ。
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東側。
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外に出て、西小天守側から見上げる。
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備前丸まで下りて来ました。
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そして、正面から大天守。
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こちらは斜めから...
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備前門を外側に潜って、振り返る。
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腹切丸に続く階段。(腹切丸は非公開)
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りの門。
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りの門を潜って、備前丸の石垣越しに大天守。
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二の丸にあるお菊井戸を覗き込む。
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ぬの門。
左は改修中の りの一渡櫓。
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ぬの門を潜ると、扇の勾配。
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周回して三国堀まで戻って来ました。
堀(池)越しの天守。
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入城口を出て左(東)へ...
黒田官兵衛ゆかりの石垣。
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その石垣。
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三の丸まで戻って天守をバックに記念の1枚!
この時、シャッターをお願いしたおじいちゃんが、
鞄から写真を取り出して、3枚の写真頂いた!
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最後に堀の外からズーム!
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鎌倉時代、赤松則村(播磨国守護)が京への足がかり(元弘の乱)に築いた砦が始まり。
その後、赤松氏→小寺氏→黒田氏と城主を代え、山陽道の要衝にある事から、
黒田官兵衛(孝高)が中国(毛利氏)攻めの羽柴秀吉に献上、秀吉はここを拠点に周囲を平定、
鳥取城攻めや備中高松城攻めの拠点ともなり、毛利勢と戦う事となる。その他、詳細はコチラを参照!
改修後、あまりの白さに「シロスギ城」(白鷺城)と言われた天守も、カビのせいで落ち着いた感じに...
立入禁止や、観覧コースに入ってないエリアが多かったが、
また観光客(の数)が落ち着けば、自由に散策(探訪)出来る時が来るかな?
↓これが前記のおじいちゃんに頂いた写真。
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