高宮町指定(現 安芸高田市史跡) 仁後城跡 (伝和智誠春館跡)
別名「尼子城」ともいい城主は不明。
一説には尼子一族の城といわれ、毛利方の牛首城(佐々部氏)との間にたびたび戦いが行われたという伝説をもつ。
血刀を洗ったため、小川が桜色に染まったので、「桜小川」の名がついたのもその一つである。
また別に、吉舎南天山城主和智誠春の居館ともいわれている。
毛利隆元は永禄6年(1563)、出雲遠征の途中、式敷・蓮華寺で没したが、その前夜誠春の供応を受ける。
その場所は定かではないが、地理的条件や言い伝えなどからここに誠春の館があったとする説は、
うなずけるところである。
城跡は、標高280mの丘陵頂部の主郭を中心に北西伸びる尾根筋、南東に伸びる丘陵上に七つの郭と
小規模郭群が設けられており、それらの周辺に配した竪堀、土塁などの遺構が確認されている。
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