白山からの帰り、4年前に行きそびれた安土城跡に寄った。
彦根ICで降り、ちょっと遠回りだが、琵琶湖沿いの快適な道で安土城跡を目指す。
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安土山を回り込む様にして、北西側から望む。
右の最高峰(天主閣跡)から右側が、
探訪(入山可能)エリアだ。
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道路沿い(駐車場前)にある案内板。
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右を向くと...
屋敷跡か何かかな?
奥に案内板があるけど、ちょっと遠いのでパス!
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左を向く...
こちらも同様。
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そして、受付(料金所)を通過。700円也。
パンフレットをゲットして、それを元に巡る。
大手道から階段をひたすら上り、本丸、天主閣跡へ。
折り返して、三重塔、仁王門方面へ下山。山腹を巻いて戻ってくる。
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すぐ横に案内板。
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赤線が道順。
中央下(現在地)から中央上(天主跡)まで行き、
折り返して、左下の仁王門を目指す。
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防御を主眼にした『城』としては、
異例の直線的な階段。
天皇を迎え入れる為だとか、
天主(信長)に近づく為の演出だとか...
今は木が生い茂ってますが、
この正面に天主閣がそびえ立ってました。
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伝前田利家邸跡。
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何段にもなっていて広大な敷地の様ですが、
調査が及んでない部分もある様です。
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伝前田利家邸跡の虎口。
今入ってきた石段沿いに虎口があった様です。
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三段の石垣。
この左側が大手道(階段)で、
道沿いに多門櫓、虎口に櫓門、
その下方に隅櫓を配置し、
大手道を防御する施設となっています。
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ここを登ると...
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この案内板。
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その木樋が発見された水路。
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伝羽柴秀吉邸跡。
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秀吉邸は前田利家邸の向かいにあります。
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この入り組んだ石垣の上も...
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羽柴秀吉邸跡で、主殿があった様です。
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その説明板。
下段には櫓門、上段には高麗門、
高麗門横には隅櫓があり、
やはり大手道の防御を担っていました。
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大手道を少し上がって右手、摠見寺仮本堂。
伝徳川家康邸跡となっています。
しかし、
先程から『伝』と言う字が気になる...
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ここまで直線だった石段が、
ここで突き当たり、左折する。
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そこから見下ろす。
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更に先で右にカーブし、
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ジグザグに上がって行く。
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武井夕庵邸跡。
だれ? と思って調べたら、
『織田信長の右筆・官僚。茶人でもある。』
とある。
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そしてジグザグの石段を見下ろす。
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伝織田信忠邸跡。
(織田信忠)
信長の後継者。
本能寺の変の際、二条城で明智軍を迎え撃つが、
善戦をするも、「衆寡敵せず」と自刃した。
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その奥にある石碑だが、
何が書いてあるか全く分らず...
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そこから更に石段を上る。
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途中、左手に無造作に、
「織田信澄邸跡」「森蘭丸邸跡」
この奥は藪で確認出来ず。
この辺りに二人の邸宅があったとされたか...
(織田信澄)
信長の甥。
明智光秀の娘と婚姻関係にあり、
本能寺の変の際、大坂城内で
神戸信孝、丹羽長秀らに謀殺される。
(森蘭丸)
信長の近習。
本能寺の変の際、明智軍により討ち取られた。
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この辺り、何気にいい石が使ってある。
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ここを曲がった先が、
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黒金門跡。
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その説明板。
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門を潜って左手、
織田信雄公四代供養塔。
(織田信雄)
信長の次男。
本能寺の変後、次期当主三法師の後見役となり、
尾張、伊賀、南伊勢の100万石を相続。
賤ヶ岳の戦いでは秀吉方に属した。
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←意味が分らなかったので調べた。
信雄は、宇陀松山藩(大和)の初代藩主で、
二代 高長、三代 長頼、四代 信武と続く。
右から、初代→四代→三代→二代
の並びになってるのは何故?
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その横に、いい石が無造作に積み上げてある。
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次に進む。
右の黒金門から来て、鈎型になっている。
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そして石段を上がる。
左上は二の丸。
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石段を上りきった郭に、仏足石。
中世の遺物ですが、
石垣に使われていたものが、
城の整備の際に発見された様です。
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これです。
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さらに石段を上がると...
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左手に、二の丸跡。
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奥に何かある...
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信長公本廟。
秀吉が信長の遺品を埋葬して本廟とした。
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護國駄都墖。???
左奥(上)が信長公本廟。
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その横にこれ。
何かお供え物でも置いたのかな?
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本丸跡。
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その説明板。
千畳敷、本丸御殿跡とも...
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本丸御殿跡の名の通り、一面に礎石が...
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本丸御殿は、
京都の清涼殿(天皇の住居)と酷似した構造となっており、
信長が、天皇を迎え入れる為に、天主の近くに建てたとか...
なので、信長は御殿ではなく、天主閣に住んでいたそうです。(唯一、天主閣に住んだ武将だとか...)
本丸御殿は高床式となっており、天主取付台や三の丸とは渡り廊下で繋がっていた様です。
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本丸を取り巻く石塁の上。
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本丸南東隅に櫓台。
この左から三の丸に続きますが、
立入禁止です。
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本丸北東隅に虎口かな?
搦め手道の方に続いているみたいです。
ここも立入禁止。
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この階段を上ると...
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天主取付台。
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天主台の東側は石垣が崩れたような、
土の斜面になってます。
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そして、この階段を上ると...
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天主閣跡。
一面に礎石が見えます。
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その説明板。
この場所は天主の地下一階部分で、
周囲は石累で囲まれていますが、
当時は現在より高く幅広な石累であり、
それを覆う様に広大な天主閣が建っていた様です。
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こんな感じかな。(^^;)
多分、左が西、右が東(4枚前の写真)。
子供のお絵かきみたいですみません。m(_ _)m
西の石垣の裾野に沿って
礎石がずらりと並んでいるらしいので、
西側にはテラス的なものが張り出していたのでは?
と言う事です。
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天主閣跡から北の展望。
当時は眼下にすぐ琵琶湖の内湖(入り江)
が迫っていたとか...
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琵琶湖沿いには、明智光秀に坂本城を、織田信澄に大溝城を築城させ、羽柴秀吉を長浜城に入れた。
何れも平城(水城)で、自分だけデーンと山上に天主閣を建てたのはいかにも信長らしい。
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ズーム!
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地下部分を見下ろす。
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現在の石累の上。
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これも...
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南西側に申し訳程度の展望。
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ここから一旦引き返し、織田信忠邸跡辺りから西に進路を採り、三重塔方面を目指す。
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この階段を上りきると...
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摠見寺本堂跡。
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上記、向こう側に廻って、振り返る。
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その横に三重塔。
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そこからの展望。
眼下は西の湖。
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仁王門に向けての急な石段。
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途中振り返って、この辺りが表門跡だとか...
石段の途中に門があったのかな?
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仁王門。
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潜って振り返る。
お馴染み「あ」「うん」の像が...
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さらに下る。
この辺りは、左右に郭が段々に配置されている。
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その段々の郭にも石積みが使われているが、
この辺りのは、
適当な石を適当に積み上げたっぽい。
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右手の郭に、何だろう?
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順路を下りきって左折。
山腹を巻きながらスタート地点に戻りますが、
この辺りの急斜面には防御設備は不要の様です。
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1時間半で周回して戻ってきました。
受付の裏手に...
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1579年、織田信長による築城。
その際、岐阜城を後継の信忠に譲り、安土城に移った。
1582年、本能寺の変後、天守閣焼失。
原因は明智軍による放火とも、失火とも、諸説あり。
天下人となった信長にとっては、
防御は二の次、権威の象徴と交通の便(琵琶湖)に主眼を置いての築城ではなかったでしょうか。
山城(平山城)形式を採ったのも、荘厳な天主閣で他を圧倒する為の手段だったのでは...
近世では、平城+城郭(天守閣)+交通の要衝が主流になるが、その先駆けと言っていいでしょう。
(天守閣について)
歴史ファンには周知の事実だが、安土城では『天守閣』を『天主閣』と表す。
天下人信長を天主と仰ぐ為であろうが、自称なのか? だれかがヨイショしたのか? (^^;)
『兼見卿記』の中で、坂本城(明智光秀)に対して「天主」の下りは見られるが、
一般的には、『安土城だけが「天主」を名乗った』としていいのではないでしょうか。
天守閣の先駆けは、松永久秀の多聞山城と言われる事もあるが、
その所以となった四階櫓を『天守閣』と呼ぶとか、呼ばないとか...
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