siro  安土城跡(あづちじょう) 比高110m
場所滋賀県近江八幡市安土町下豊浦 往時の天主閣を偲ぶ
往時の天主閣を偲ぶ
訪問日2017年9月30日(土)
備考 信長が天下人として権力を象徴する為に建てた荘厳な天主閣を抱く城

地形図(順路)
パンフレット①



白山からの帰り、4年前に行きそびれた安土城跡に寄った。
彦根ICで降り、ちょっと遠回りだが、琵琶湖沿いの快適な道で安土城跡を目指す。

安土城
安土山を回り込む様にして、北西側から望む。

右の最高峰(天主閣跡)から右側が、
探訪(入山可能)エリアだ。
案内板
道路沿い(駐車場前)にある案内板。
安土城
右を向くと...

屋敷跡か何かかな?
奥に案内板があるけど、ちょっと遠いのでパス!
安土城
左を向く...

こちらも同様。
そして、受付(料金所)を通過。700円也。
パンフレットをゲットして、それを元に巡る。

大手道から階段をひたすら上り、本丸、天主閣跡へ。
折り返して、三重塔、仁王門方面へ下山。山腹を巻いて戻ってくる。

案内板
すぐ横に案内板。
道順
赤線が道順。

中央下(現在地)から中央上(天主跡)まで行き、
折り返して、左下の仁王門を目指す。
階段
防御を主眼にした『城』としては、
異例の直線的な階段。

天皇を迎え入れる為だとか、
天主(信長)に近づく為の演出だとか...

今は木が生い茂ってますが、
この正面に天主閣がそびえ立ってました。
伝前田利家邸跡
伝前田利家邸跡。
伝前田利家邸跡
何段にもなっていて広大な敷地の様ですが、
調査が及んでない部分もある様です。
伝前田利家邸跡
伝前田利家邸跡の虎口。
今入ってきた石段沿いに虎口があった様です。
三段の石垣
三段の石垣。

この左側が大手道(階段)で、
道沿いに多門櫓、虎口に櫓門、
その下方に隅櫓を配置し、
大手道を防御する施設となっています。
伝前田利家邸跡
ここを登ると...
案内板
この案内板。
木樋
その木樋が発見された水路。
伝羽柴秀吉邸跡
伝羽柴秀吉邸跡。
伝羽柴秀吉邸跡
秀吉邸は前田利家邸の向かいにあります。
伝羽柴秀吉邸跡
この入り組んだ石垣の上も...
主殿
羽柴秀吉邸跡で、主殿があった様です。
説明板
その説明板。

下段には櫓門、上段には高麗門、
高麗門横には隅櫓があり、
やはり大手道の防御を担っていました。
摠見寺仮本堂
大手道を少し上がって右手、摠見寺仮本堂。
伝徳川家康邸跡となっています。

しかし、
先程から『伝』と言う字が気になる...
石段
ここまで直線だった石段が、
ここで突き当たり、左折する。
石段
そこから見下ろす。
石段
更に先で右にカーブし、
石段
ジグザグに上がって行く。
武井夕庵邸跡
武井夕庵邸跡。

だれ? と思って調べたら、
『織田信長の右筆・官僚。茶人でもある。』
とある。
石段
そしてジグザグの石段を見下ろす。
伝織田信忠邸跡
伝織田信忠邸跡。

(織田信忠)
信長の後継者。
本能寺の変の際、二条城で明智軍を迎え撃つが、
善戦をするも、「衆寡敵せず」と自刃した。
石碑
その奥にある石碑だが、
何が書いてあるか全く分らず...
石段
そこから更に石段を上る。
織田信澄邸跡 森蘭丸邸跡
途中、左手に無造作に、
「織田信澄邸跡」「森蘭丸邸跡」

この奥は藪で確認出来ず。
この辺りに二人の邸宅があったとされたか...

(織田信澄)
信長の甥。
明智光秀の娘と婚姻関係にあり、
本能寺の変の際、大坂城内で
神戸信孝、丹羽長秀らに謀殺される。

(森蘭丸)
信長の近習。
本能寺の変の際、明智軍により討ち取られた。
安土城
この辺り、何気にいい石が使ってある。
石段
ここを曲がった先が、
黒金門跡
黒金門跡。
黒金門跡
その説明板。
織田信雄公四代供養塔
門を潜って左手、
織田信雄公四代供養塔。

(織田信雄)
信長の次男。
本能寺の変後、次期当主三法師の後見役となり、
尾張、伊賀、南伊勢の100万石を相続。
賤ヶ岳の戦いでは秀吉方に属した。
織田信雄公四代供養塔
←意味が分らなかったので調べた。

信雄は、宇陀松山藩(大和)の初代藩主で、
二代 高長、三代 長頼、四代 信武と続く。

右から、初代→四代→三代→二代
の並びになってるのは何故?
安土城
その横に、いい石が無造作に積み上げてある。
鈎型
次に進む。
右の黒金門から来て、鈎型になっている。
石段
そして石段を上がる。
左上は二の丸。
仏足石
石段を上りきった郭に、仏足石。

中世の遺物ですが、
石垣に使われていたものが、
城の整備の際に発見された様です。
仏足石
これです。
石段
さらに石段を上がると...
二の丸跡
左手に、二の丸跡。
二の丸跡
奥に何かある...
信長公本廟
信長公本廟。
秀吉が信長の遺品を埋葬して本廟とした。
護國駄都墖
護國駄都墖。???
左奥(上)が信長公本廟。
安土城
その横にこれ。
何かお供え物でも置いたのかな?
本丸跡
本丸跡。
本丸御殿跡
その説明板。
千畳敷、本丸御殿跡とも...
礎石
本丸御殿跡の名の通り、一面に礎石が...
本丸御殿は、
京都の清涼殿(天皇の住居)と酷似した構造となっており、
信長が、天皇を迎え入れる為に、天主の近くに建てたとか...

なので、信長は御殿ではなく、天主閣に住んでいたそうです。(唯一、天主閣に住んだ武将だとか...)

本丸御殿は高床式となっており、天主取付台や三の丸とは渡り廊下で繋がっていた様です。

石塁
本丸を取り巻く石塁の上。
櫓台
本丸南東隅に櫓台。

この左から三の丸に続きますが、
立入禁止です。
本丸
本丸北東隅に虎口かな?

搦め手道の方に続いているみたいです。
ここも立入禁止。
階段
この階段を上ると...
天主取付台
天主取付台。
天主台
天主台の東側は石垣が崩れたような、
土の斜面になってます。
階段
そして、この階段を上ると...
天主閣跡
天主閣跡。
一面に礎石が見えます。
天主閣跡
その説明板。

この場所は天主の地下一階部分で、
周囲は石累で囲まれていますが、
当時は現在より高く幅広な石累であり、
それを覆う様に広大な天主閣が建っていた様です。
天主閣
こんな感じかな。(^^;)
多分、左が西、右が東(4枚前の写真)。

子供のお絵かきみたいですみません。m(_ _)m

西の石垣の裾野に沿って
礎石がずらりと並んでいるらしいので、
西側にはテラス的なものが張り出していたのでは?
と言う事です。
天主閣跡
天主閣跡から北の展望。

当時は眼下にすぐ琵琶湖の内湖(入り江)
が迫っていたとか...
琵琶湖沿いには、明智光秀に坂本城を、織田信澄に大溝城を築城させ、羽柴秀吉を長浜城に入れた。

何れも平城(水城)で、自分だけデーンと山上に天主閣を建てたのはいかにも信長らしい。

天主閣跡
ズーム!
地下
地下部分を見下ろす。
石累
現在の石累の上。
石累
これも...
安土城
南西側に申し訳程度の展望。
ここから一旦引き返し、織田信忠邸跡辺りから西に進路を採り、三重塔方面を目指す。


階段
この階段を上りきると...
摠見寺本堂跡
摠見寺本堂跡。
摠見寺本堂跡
上記、向こう側に廻って、振り返る。
三重塔
その横に三重塔。
西の湖
そこからの展望。
眼下は西の湖。
石段
仁王門に向けての急な石段。
仁王門
途中振り返って、この辺りが表門跡だとか...
石段の途中に門があったのかな?
仁王門
仁王門。
仁王門
潜って振り返る。
お馴染み「あ」「うん」の像が...
郭
さらに下る。

この辺りは、左右に郭が段々に配置されている。
石積み
その段々の郭にも石積みが使われているが、
この辺りのは、
適当な石を適当に積み上げたっぽい。
郭
右手の郭に、何だろう?
安土城
順路を下りきって左折。
山腹を巻きながらスタート地点に戻りますが、
この辺りの急斜面には防御設備は不要の様です。
安土城
1時間半で周回して戻ってきました。

受付の裏手に...
1579年、織田信長による築城。
その際、岐阜城を後継の信忠に譲り、安土城に移った。

1582年、本能寺の変後、天守閣焼失。
原因は明智軍による放火とも、失火とも、諸説あり。

天下人となった信長にとっては、
防御は二の次、権威の象徴と交通の便(琵琶湖)に主眼を置いての築城ではなかったでしょうか。
山城(平山城)形式を採ったのも、荘厳な天主閣で他を圧倒する為の手段だったのでは...

近世では、平城+城郭(天守閣)+交通の要衝が主流になるが、その先駆けと言っていいでしょう。

(天守閣について)
歴史ファンには周知の事実だが、安土城では『天守閣』を『天主閣』と表す。
天下人信長を天主と仰ぐ為であろうが、自称なのか? だれかがヨイショしたのか? (^^;)

『兼見卿記』の中で、坂本城(明智光秀)に対して「天主」の下りは見られるが、
一般的には、『安土城だけが「天主」を名乗った』としていいのではないでしょうか。

天守閣の先駆けは、松永久秀の多聞山城と言われる事もあるが、
その所以となった四階櫓を『天守閣』と呼ぶとか、呼ばないとか...





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 参考資料:あづち周遊『安土城跡』