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堀沿いの歩道にある案内板。
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山下ノ丸(近世城郭)探訪(北ノ御門跡~二ノ丸~天球丸~大手道~中ノ御門跡) |
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城域に向かって左手、
北ノ御門跡前の堀の橋上から...
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堀の左手。
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右手。
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北ノ御門跡の石垣。
両サイドの石垣の上に櫓門でもあったでしょうか。
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現在、仁風閣のあるエリア。
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北ノ御門跡から真っ直ぐ突き当たり正面の石垣。
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その横に近世鳥取城の説明板。
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右を向くと中仕切門。
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中仕切門を潜ると左手前方に二ノ丸跡と三階櫓跡。
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二ノ丸跡に向けてその横の階段を登ります。
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途中、左。
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そして右。
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階段を登ると、二ノ丸跡北西下の細長い郭跡。
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更に二ノ丸跡に向けて階段を登る途中...
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二ノ丸跡(北側)。
広大過ぎて奥まで見えません。
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二ノ丸跡説明板。
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石切場。
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その説明板。
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三階櫓跡。
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その説明板。
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三階櫓跡修復の様子。
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三階櫓跡から足元を見下ろします。
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二ノ丸跡(南側)。
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ここにも二ノ丸跡の説明板。
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二ノ丸南西にある菱櫓跡。
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その説明板。
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菱櫓跡から三ノ丸跡方面。
現在三ノ丸跡は鳥取西高校の敷地になっています。
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その説明板。
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菱櫓跡から、
左が走櫓跡、右奥が天球丸跡。
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大手道(右下)から二ノ丸(手前)に通じる表御門跡。
ここも櫓門かな?
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走櫓跡。
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天球丸跡。
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その説明板。
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天球丸跡から山上ノ丸への登山道に入った直後、
何か発掘中の様です。
この石畳は通路か?
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その下が堀状なっているので水路かな?
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天球丸下の郭跡。
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その奥に盾蔵跡。
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盾蔵跡にある案内板。
「天球丸の構造変遷」とあります。
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そこから天球丸跡を望む。
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上記、丸い石垣(巻石垣)の説明。
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盾蔵跡から二ノ丸方面を望む。
右上は天球丸跡。
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大手道を下りながら振り返ります。
正面は菱櫓跡。
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菱櫓跡から見えた庭園跡。
左に古い石垣跡が見えます。
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また振り返ります。
右が大手道、左の階段は二ノ丸に通じる道、
正面の石垣は二ノ丸、右奥が菱櫓跡。
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太鼓御門石垣跡。
石垣の上には櫓門があった様です。
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その説明板。
┏━━● 門 ●┓
┃ ┃
┃ ┃
┃ ┃
┃ ┃
┃ ━━━━┻┳
┃ ┃
こんな風に鉤型になってますが、
どこの石垣でしょうか?
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大手登城路跡説明板。
大手道の堀を渡ると中ノ御門跡がある様ですが、
小さな門を潜ると、枡形になっており、
右手に櫓門の中ノ御門があった様です。
こんな感じ...
┏━━━━━┓
┃ ●
┃ 中
┃ 御
┃ 門
┃ ●
┻━● ●━┻
┃ ┃
堀 ┃橋┃ 堀
┃ ┃
━━┫ ┣━━
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大手道を振り返ります。
当時は堀の向こうに枡形の中ノ御門があったはず...
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堀の右手。
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左手。
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山上ノ丸(中世~近世城郭)探訪(天球丸から入山~本丸~二ノ丸~三ノ丸~東の郭まで) |
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登山道の五合目。ここも郭跡でしょうか。
奥に久松中坂大権現があります。
池田氏関係の神社の様です。
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途中左手に小郭跡。
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竪堀?を見下ろす。
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これも左手に石垣跡。
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山伏ノ井戸。
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山頂直前に「山上ノ丸」の説明板。
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その説明板のある二ノ丸南下の郭跡。
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上記郭から二ノ丸の石垣を見上げる。
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そして本丸方面を見上げる。
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最後にこの石段を登ると...
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本丸跡。
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その説明板。
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車井戸。
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本丸より南西側の展望。城下町を一望!
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本丸南西下にある郭跡。
この先に出丸があるみたいですが...
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ここは何か建物のあった跡の様です。
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北東の展望。
右端が本陣山(太閤ヶ平)です。
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その説明板。
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本丸北面に虎口。
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降りると郭跡。
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そこから本丸を見上げると、
ここも一面石垣跡が見られます。
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天守櫓台の石垣。
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これも...
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そして階段で上がれますが、
マニアの方はこの石段を踏みしめて下さい。
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天守櫓跡。
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ここに天守櫓が建っていたのでしょう。
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その他にもいくつか礎石らしいものが...
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天守櫓台から西側の展望。中央より右に日本海が見えます。
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東に移動して、二ノ丸跡。
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その先に三ノ丸跡。
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更に東にこの郭跡。
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左を向くと門跡。
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その石垣。
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反対側の石垣。
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門の横に井戸跡。
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探訪終了後... |
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堀越しに山上ノ丸(久松山)。
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堀沿いに鳥取城跡説明板。
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(まとめ・総評)
山麓の二ノ丸、天球丸などからなる山下ノ丸遺構群は、近世(江戸期以降)城郭跡で、
山頂近辺の本丸、二ノ丸、三ノ丸などからなる山上ノ丸遺構群は、中世から近世にまたがる城郭跡です。
谷をはさんで東に位置する本陣山山頂の「太閤ヶ平」は、
羽柴(豊臣)秀吉が鳥取城攻略戦(鳥取の渇え殺し)の際に本陣を置いた場所になります。
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戦国時代、天神山城を拠点に因幡を治めていた山名氏によって、久松山の山頂に作られた出城を起源とする。
山名氏配下の武田高信がこれを拠点に山名氏に反逆、一時山名氏を追い落とすが、結局山名豊国に追われる事になる。
豊国は天神山城から鳥取城に本拠を移すが、秀吉との戦いで、同盟者の毛利氏を裏切って降伏した為、
家臣に追放され、代わって毛利方の吉川経家が鳥取城に入る。
秀吉の幾重もの包囲陣による兵糧攻めの為、吉川経家は城兵の助命を条件に降伏、自刃(切腹)した。
(秀吉は経家の奮戦を称え、助命するとの意思を伝えたが、結局経家は自らの意思で自害したとされる。)
後、秀吉配下の宮部継潤が城主となるが、関が原敗戦後に改易、東軍の池田長吉が入る。
池田長吉は、山下ノ丸の城郭を作り上げたほか、山上ノ丸を整備するなどの大改修を行った。
その後、池田光政(初代藩主)、池田光仲(鳥取池田家始祖)と続き、三代目の池田吉泰の大改修などを経て、
三十二万石の大藩にふさわしい大城郭となった。
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山下ノ丸遺構群は、明らかに近世城郭跡ですが、
山上ノ丸遺構群は、中世の郭跡を中心に、石垣等は近世に整備されたものではないでしょうか。
中世城郭跡は現在山頂付近にしか目に付きませんが、当時は山頂から西側の尾根を中心に整備されていた様です。
場所は、
鳥取県庁のすぐ北側に位置し、山下ノ丸の三ノ丸跡には鳥取西高が建ってます。
堀沿いにずらっと無料駐車場がありますが、縦列駐車の苦手な人には向きません。(平日は駐車不可だったかな?)
その他、県庁の駐車場が無料解放されているらしいですが、
県庁や最寄の施設で駐車券にスタンプを押さないと退場出来ないとか...
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