siro  壬生城跡(みぶじょう)、比高90m
場所広島県山県郡北広島町(千代田地区)壬生
訪問日2009年12月12日(土)
備考武田、吉川、毛利、高橋氏勢力の狭間での山県氏の城
郭図の表示



壬生神社の鳥居をくぐると、
この案内板があります。
その右手に大イチョウ(右奥)。
手前の大木は何でしょうか?
一段上がって、壬生神社(旧壬生新宮社)。
毛利元就の建立です。
山道途中に「延命の水」。
左の蓋をめくると水が出てました。
当城の水の手だったのでしょうか?
本丸。
そこの案内板。
新庄(吉川領)、美土里(高橋領)方面の展望。
美土里(高橋領)、吉田(毛利領)方面の展望。
有田(有田領)方面の展望。
中央の丘陵地は有田城跡
二の丸東側。
二の丸西側。
二の丸北西側。
北西側は1段高くなっている。
西側と北西側は現在平坦な通路で繋がっているが、
当時はこの通路は無かったのでは?

なので、1段高い二の丸北西側は、
とりあえず「A郭」とします。
A郭北西面の土塁。
上記土塁から谷底に向けて階段がある。
かなりの深さがある。

この谷底は二重の堀切になっているが、
この真下と右側は藪に覆われている。

なので比較的藪の少ない左側に行ってみる。
谷底を左に行き、二重堀切のA郭側の堀切。
右上がA郭。
上記堀切が枝分れし、A郭西の尾根を断ち切る。
二重堀切のA郭の反対側には石積みも見られる。
二重堀切を西に見下ろす。
左手に微かにもう1本(堀切)見える。
振り返る。
二重堀切がよく確認出来る。
この先が二重堀切の先端です。
二重堀切の先端を振り返る。
A郭に戻って、二の丸から三の丸に移動中、
間の堀切(左は山道)と、奥にB郭。
三の丸。
三の丸にある石碑。
C郭。
壬生城跡(高峰城跡)全景。(北東側より)
壬生神社前の道を北上、約260mで左に
「山縣少輔五郎信春公墓参道」の石柱がある。


ここを左折、道なりにその先を右折、
すぐ先の左手階段を登ると善福寺跡がる。
山県氏の菩提寺と伝えられる。
その先道なりに左にクランクした少し先左に、
「山縣少輔五郎信春公墓」がある。
これは一族の墓でしょうか。
おまけ。
道の駅「舞ロードIC千代田」に車を停め、
南側のグランドゴルフ場を突っ切り、
柵を越え、斜面を下り、目の前の橋を渡ると、
正面に、左を向いて「熊谷信直の墓」がある。
※熊谷信直(武田側)は有田合戦で戦死。

(まとめ・総評)
山県氏の総領である壬生氏の本城。壬生城、又は高峰城と言われる。
壬生氏は一族の今田氏、有田氏らと伴にこの地を治める。
山県氏は平安末期に、美濃国山県郡より山県為綱が安芸国壬生荘に下向、
南北朝時代には、毛利親衡らと共に足利直冬側に就くが、直冬の勢力低下に伴い、北朝に帰順する。
その後、山県氏は武田氏の家臣となり、有田合戦では戦況不利と見て、山県信春(壬生城主)は毛利氏に投降する。
後に、壬生城は毛利氏、吉川氏により接収される。

千代田ICから県道5号線を東進、900mで壬生バイパス中交差点、これを左折、先の突き当たりT字路を右折、
すぐ次のT字路を新庄方面の看板を見ながら左折、北上150m先で路地を左折(案内なし)、突き当りが壬生神社。
鳥居手前右手に駐車スペースあり。(鳥居前右折困難)

壬生神社から往来に戻り、北上260mで左手に「山縣少輔五郎信春公墓参道」の石柱。
ここを左折、道なりにその先を右折、すぐ先の左手階段(石柱から110m)を登ると善福寺跡。
階段下から更に道なりに200m先左手上に山縣少輔五郎信春公墓がある。

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 参考資料: 広島県中世城館遺跡総合調査報告書