戦国武将の墓
城跡探訪(主に広島、中国地方)で付いてきた、戦国武将たちの墓を再編集して紹介しています。

毛利氏 毛利隆元、毛利一族、毛利元就、嘯岳禅師、相生四郎元綱、毛利弘元夫妻、杉の大方、毛利隆元逝去の地(2016.6.4追加)
志道氏 一代~五代(志道広良は二代目)
福原氏 10代広俊、11代貞俊、元就母の墓跡、広俊の息女、12代元俊
桂氏 桂広澄
国司氏 墓石群
渡辺氏 渡辺七人塚
宍戸氏 宍戸元源夫妻、宍戸隆忠公、宍戸隆家夫妻
熊谷氏 熊谷信直(元直?)、墓石群、熊谷信直(有田合戦場跡)
平賀氏 墓石群
吉川氏 吉川元春、吉川元長、吉川興経(首塚)、吉川興経(胴塚)
武田氏 武田氏信の墓、墓石群、武田元繁戦死の碑
山県氏 山縣少輔五郎信春公墓、墓石群
小早川氏 墓石群、小早川隆景、土肥実平、竹原小早川家墓石群
浦(乃美)氏 浦宗勝
村上氏(村上水軍) 因島水軍城墓石群、村上元吉の墓(2016.6.4追加)
池上氏 雲雀城主墓石群
尼子氏 尼子興久の墓、尼子久幸、尼子三兄弟のゆかりの墓
杉氏 杉隆泰、鞍掛戦死者之碑
杉原氏 鷲尾山城関係墓石群
湯浅氏、下見氏 湯浅氏歴代の墓、下見氏の墓(2016.6.4追加)
関ケ原にて 大谷吉継の墓、湯浅五助隆貞の墓(2016.6.4追加)
三原城下にて 浅野忠長の墓、福島正之の墓、浅野家歴代の墓(2016.6.4追加)
不動院にて 豊臣秀吉遺髪の墓、武田信実の墓、安国寺恵瓊の墓、福島正則の墓(2016.6.4追加)

毛利氏
郡山城跡にある毛利隆元(元就の嫡子)の墓。

隆元は吉舎の南天山城主和智誠春の饗応で急死。
毒殺説も...
説明文
毛利一族の墓。
説明文
毛利元就の墓。
説明文
おまけの嘯岳禅師の墓。

元就は初七日の後、嘯岳禅師により葬された。
説明文

以上、郡山城跡を参照
吉田町相生の地にある相生四郎元綱(元就の弟)の墓。

四男就勝の墓との説もある。

以上、船山城跡を参照
多冶比猿掛城跡にある毛利弘元(元就の父)夫妻の墓。
その案内板。
その墓石。
中央が毛利弘元の墓、その左が夫人の墓。
夫人は親元の福原城で亡くなったが、
大正10年にこの地に移葬。
引いて見た図。
多冶比猿掛城跡西向かいの山の麓にある
杉の大方(元就の養母)墓。
その案内板。
その墓石。

以上、多冶比猿掛城跡を参照
毛利隆元逝去の地の説明板。
石碑。
毛利隆元 湯灌石。

以上、仁後城跡を参照
志道氏
広島市安佐北区白木町志路のある志道氏墓所。

志道氏一代~五代が埋葬される。
元就の重臣志道広良は二代目。

以上、白木町の城跡たちを参照
福原氏
鈴尾城登場口より山裾を200m程西へ。
5分程山道を登ります。
「福原氏墓所」の案内板。
10代広俊、11代貞俊の墓と、
元就の母の墓跡(大正10年に猿掛城に移葬)。
広俊の息女、12代元俊の墓。

以上、鈴尾城跡(福原城跡)を参照
桂氏
桂城跡東麓にある桂広澄の墓。

以上、桂城跡を参照
国司氏
吉常山城跡西麓にある説明版。
墓石群。

以上、田渕ヶ城跡を参照
渡辺氏
長見山城跡から北に300m(直線距離)
くらいの所に「渡辺七人塚」。
その説明板。
※民家の敷地内。
元就らに奇襲され殺された渡辺一族の墓。

以上、長見山城跡を参照
宍戸氏
理窓院境内はずれにある宍戸元源夫妻の墓。
その案内板。
元源の墓。
その妻の墓。
同じく理窓院境内の上の方には
「宍戸隆忠公之墓」とある。
元源の子、隆忠の墓でしょうか。
天叟寺跡にある宍戸隆家夫妻の墓。
その案内板。

ここで言う「妻」とは石見氏から入った後妻の事。
最初の妻五龍の局(元就の長女)の墓は
「天叟寺旧地にあり」とあり、場所は不明である。
手前が隆家、奥が妻女の墓。

以上、五龍城跡を参照
熊谷氏
熊谷氏菩提所観音寺跡の案内板。
熊谷氏の墓石群。
50基はあります。
「熊谷信直之墓」
写真は、熊谷元直の墓と言う説もあります。

以上、伊勢が坪城跡を参照
こちらは有田合戦跡地にて「熊谷信直の墓」。

以上、壬生城跡(高峰城跡)を参照
平賀氏
御薗宇城跡から北西に400~500mにある説明板。
平賀氏の墓地。

以上、御薗宇城跡を参照
吉川氏
吉川元春館跡にある吉川元春墓所の案内板。
中央が吉川元春の墓、左端が長男の元長の墓。

以上、小倉山城跡を参照
日山城跡山麓にある
常仙寺跡(吉川興経墓所)の案内板。
吉川興経墓所。
これは首塚。
中に入ってみる。

以上、日山城跡を参照
布川(深川)の地にある説明板。
(JR上深川駅のすぐ北側)
吉川興経の墓。
これは胴塚。

※布川は興経幽閉(誅殺)の地。
千法師(興経の子)の墓
(JR上深川駅東のトンネルの上)

以上、木ノ宗山城跡を参照
武田氏
武田氏信の供養塔。
氏信は安芸守護武田氏の初代銀山城主で、
その兄信成は甲斐武田氏で、信玄の祖。
その横の墓石群。

以上、福王寺山を参照
武田山(銀山城跡)山麓にある武田氏の墓。
憩の森の駐車場から標識に従い5分で到着。
説明板はありますが、誰の墓かは書いてありません。

以上、銀山城跡を参照
武田元繁戦死の碑。
後ろは有田城跡。
碑手前の又打川を馬で渡ろうとして、流れ矢に辺り、
不運の死をとげたと言われています。

以上、有田城跡を参照
山県氏
その先道なりに左にクランクした少し先左に、
「山縣少輔五郎信春公墓」がある。
これは一族の墓でしょうか。

以上、壬生城跡(高峰城跡)を参照
小早川氏
米山寺向かい側にある小早川家墓所の案内板。
小早川家墓所全容。
小早川隆景の墓。
小早川家の祖、土肥実平(實平)の墓。

以上、桜山城跡、三原城跡を参照
木村城跡西側の本城山山麓にある
竹原小早川家の墓。
その墓石。

以上、木村城跡を参照
浦(乃美)氏
賀儀城跡(鍵城跡)北西400mの勝運寺にある
浦(乃美)宗勝の墓。

秀吉の九州征伐に出陣中に死亡。
その地(筑前)に埋葬されたが、
小早川隆景が、筑前から三原に隠居した折り、
宗勝の墓もこの地に移葬された。

以上、賀儀城跡(鍵城跡)を参照
村上氏(村上水軍)
因島水軍城にある説明板。
墓石群。

以上、青蔭城跡(青影城跡)を参照
鎮海山城跡西側山腹にある説明板。
村上武吉の子、元吉の墓。

以上、鎮海山城跡を参照
池上氏
雲雀城跡麓の本照寺にある説明板。
こちらは墓主の名簿。
雲雀城主墓石群(五輪塔)。

以上、雲雀城跡を参照
尼子氏
尼子興久の墓。

興久は経久の三男。
内紛により、
経久に追われ甲山城の山内直通の所に逃れるが、
最後は自害して果てる。

月山富田城跡を参照
郡山合戦で見事な討死をした尼子久幸の墓。
吉田町西浦の道路沿いにある看板。
ここから山の中へ、3分程登る。
そこにある案内板。
尼子久幸の墓。

久幸は経久(出雲統一等で知られる尼子当主)の弟で、
慎重派(安芸遠征に反対等)の久幸は、
詮久(後晴久、久幸の孫、次当主)に
「臆病野州」と罵られていた。
郡山合戦での撤退の際、毛利軍に討って出、
見事な最期を遂げ、「臆病野州」の汚名を晴らした。

以上、船山城跡を参照
向原町下長田(円明寺跡)にある
「尼子三兄弟のゆかりの墓」の説明板。

尼子三兄弟はこの地(円明寺)に幽閉され、
23年後許され、白木町志路に移り、
関が原敗戦後毛利氏と伴に長門に移り、
そこで没し、墓もそちらにある。
碑には「尼子氏三兄弟之墓」とあるが、
実際はその従者の墓の様...

以上、日下津城跡を参照
杉氏
祥雲寺にある説明板。
杉隆泰(大内氏重臣)の墓。
杉隆泰以外の部下達を合葬した千人塚の説明板。
「鞍掛戦死者之碑」。
城主を除く部下達を合葬した千人塚。

以上、鞍掛城跡を参照
杉原氏
登路にある墓石群。

鷲尾山城跡を参照
湯浅氏、下見氏
鳳林寺にある説明板。
湯浅氏歴代の墓。
前記の説明にある、下見氏の墓。

以上、尾首城跡を参照
関が原にて
大谷吉隆(吉継)の墓の説明板。
その墓石。
湯浅五助隆貞の墓。

以上、関ケ原合戦(番外編)を参照
三原城下にて
宗光寺にある浅野忠長の墓の案内板。
その墓石。
同じく福島正之の墓。
その墓石。
妙正寺にある三原城主浅野家歴代の墓の案内板。
その墓石群。

以上、三原城跡を参照
新日山安国寺 不動院にて
太閤豊臣秀吉公の遺髪の墓。
武田刑部少輔之墓。(武田信実)
中興開山恵瓊の墓。(安国寺恵瓊)
福島正則公の墓。

以上、牛田山登山を参照