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戸坂支城跡(へさかしじょう)、比高75m |
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![]() | 主郭。 |
![]() | その西の郭。 奥に主郭の段差が見えます。 |
![]() | 主郭北東下の郭。 |
![]() | 更に北東下の郭。 |
![]() | 主郭南直下の堀切。 |
![]() | それを上から... |
![]() | その先(南)の尾根。 上記堀切と、尾根中ほどに堀切と、 尾根先の急登の下が軽く堀切になっています。 この尾根自体が大堀切と言っていいでしょう。 尾根を堰き止める様にトタンが立て掛けてある。 牛田山への旧登山道みたいです。 藪と急登で現在は止められているのでしょうが、 牛田山(戸坂城)(本城)には、 ここから尾根伝いに登れる様です。 |
![]() | その尾根を反対側から... |
![]() | 戸坂支城跡全景。(北東側より) |
(まとめ・総評) 戸坂氏の城。戸坂城の支城とも、出丸とも... 戸坂氏は、甲斐から安芸の守護として入って来た武田氏に、家臣として付いて来たとも言われています。 1539年、大内義隆は武田氏(尼子側)を攻め、翌年、戸坂城も大内氏の攻撃により落城したとも言われています。 1541年、武田氏の銀山城は毛利元就により落とされ、安芸武田氏は滅亡しました。 後、大内氏側に就いた戸坂氏は、温科(温品)に領地を与えられたとの事です。 もしくは、早々に大内氏側に就いた戸坂氏は武田氏に攻められたとの説もあります。 また、毛利元就により銀山城が落城しかけた折り、 戸坂入道道海により武田光和の子(後の安国寺恵瓊)を連れて太田川対岸の安国寺(現 不動院)に逃れた。 と言う諸説も残っています。 上記戦いは、実質、大内・毛利軍×尼子・武田軍の構図で、 その間、1540年には郡山合戦があった様ですが、何がどう入り乱れていたのでしょうか? 毛利氏は、当初少勢を武田氏との戦いに送り、郡山合戦後に本気で銀山城を攻めたのではないでしょうか... |
参考資料:ひろしま昔探検ネット |